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ポリフォニー …甲斐:カノン(前)…
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甲斐の章
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見た目は普通。ごく何処に出もいるような男だ。背は高い方だが、顔はあまりにも凡庸としていて、どっかで会ったことがあるような気がしてしまう顔立ち。整っても居ないが、崩れても居ない、良くある顔だろう。しかし、雰囲気がまるで他とは違う。穏やかに和やかに…柔らかく、優しく…全てを包み込んでくれそうな、錯覚を起こさせる。

あくまで自然に口元へ浮かんでいる笑みは、緩く弧を描いている。そして何よりも、目も一緒に笑っているのだ。俺は会社を経営する立場になる前から、祖父のそばでこの世界を見てきたが、みんな表面だけの笑顔、社交辞令のような微笑み…全て偽物だった。それなのに、当たり前のように…心からの笑みを浮かべている男。

俺にとっては、得体の知れない存在だ。こんな無防備な笑顔を振りまいて何の特になるのかさっぱり分からないが、俺が顔を知らないと言うことは、どこぞの業界へ入ったばかりの奴に違いない。

……一瞬でこれだけを観察したわけではなく、その後結局女の子のせいでワインの洗礼を受け、祖父から貰ったスーツは台無しになり、色々あった後、今に至る。ここは主に披露宴時に使われる、紳士用の更衣室らしかった。今は使わないからと特別に開けてもらったからのだ。

「すみませんでした…巻き込んでしまって」

再び、あの耳に心地よい声が喋る。父が差し向けた無駄なマシンガントーク野郎の声は騒音として耳を通り抜けていくのに、こいつの声はどうもそうはいかないようだった。声の持ち主はは壁にもたれかかって、どこかうつむいている。とりあえず、謝られる筋合いはない。

この目の前に居る男に女の子が再び懲りずに突進してきたとき、こいつは俺を巻き込みやがったが、床へ倒れたときの衝撃は少なく、持っていたワインは思ったより被害を及ぼしていなかった。……考えてみるに、こいつが最善を尽くした結果だと俺は見ている。

「あの子供がいけないんだろ、あんたが謝ることじゃない」

そう、あんたが謝ることじゃないと、きっぱりと言い切る…それに合わせるようにして、うつむいていた頭がこちらを見た。また、柔らかな表情…そんな顔をしているとすぐ誰かにとって食われるんじゃないだろうか。……俺が心配する義理は無いのだが。

自然と目に力が入ってしまうが、それを抑える努力をするつもりはない。

「そうですが…謝らせて下さいませんか。 それとも、謝られるのはお嫌でしょぅか?」

ゆっくりと首を傾けて…その場から動かないまま、俺を穏やかな目で見てくる。……それは、反則じゃないのか。俺の住む世界では、誰もが持ち得ない業だ。いつの間にか失ってしまうとも言うが。

しかし、表情と声とは裏腹に、言っていることは結構自分勝手だ。つまり、自分は謝ってしまえば気が済むから、謝らせておいてくれ、ということだ。こちら側の許しを考慮していない、一方的な願い。……しかし、俺が持っていたワインでこいつの服が汚れたのも事実だ。つまりは、謝って置くから、こちらの服が汚れたことも気にするなと言いたいのだろう。

「……。…そうか、それで気がすむなら、謝ればいい」

どうも得体の知れない奴と話すのは苦手で、素っ気ない言い方になる。こんなときは、あのマシンガントーク野郎の滑舌が羨ましいかもしれない…ほんの少しだけだが。

お互いに黙ってしまうが、こいつの沈黙はどうにも気分が悪くないから不思議だ。人は誰かと二人きりの時に会話がないと不安になるものだが、それを感じさせないのだろう。

「…あの女、何だ?」

その沈黙も喋らずにすんで気分はいいのだが、不意に気になって、聞いてみた。俺にとっては思いついた疑問そのままだったのだが、相手にとっては突飛な質問だったらしい、顔が僅かに驚いている。

「加西さま、でしょぅか?」

「カサイと言うのか? 名前はどうでもいい。夫婦…じゃないな、妻をさま付けで呼ぶ夫なぞ、そうそう居ない」

「えぇ…夫婦ではありません」

業と挑発しようとするのに、相手のゆっくりと、穏やかな口調は、やんわり受け止めて流すようでもある。そうか、この声と喋り方はこういう使い方もあるのか。

「じゃぁ、何だ」

「何故貴方がそのようなことを知りたがるのか、存じませんが…」

切り返すと、明らかに困ったと分かる…でもそれを隠すような表情をした。つまりは、聞いて欲しくないと言うことだろう。かなり困った顔をして口ごもると言うことは、それを察して欲しいのだろうが…そんなことで言及をやめるつもりは無かった。

「言えないのか」

「私が申し上げてしまって、良いことではありませんので」

「…詰まらん」

「申し訳ありません…」

「ヒサシという名は、あんたのか」

この男には連れが居て、男と同年齢くらいの女だった。こいつから聞いたところでは、加西という名前らしい。俺と同じ世界に住む…おそらく、大手企業の役員だろう…そこそこ美人だったが、なんともない相手…正直、何でこんな雰囲気の横にその女が居るのか、かなり疑問だったが、まぁいい。その女が、こいつのことを、ヒサシと呼んだことがあったのだ。

「はい、私の名ですが」

まぁ、当然だな。でなければ呼ぶわけはない。

「上は?」

「うえ、ですか…?」

要領を得ない奴だな、ちゃんと全部説明しないと分からないのか…? そこまで馬鹿には見えないのだが、それとも単に惚けているだけなのか……。

「苗字」

「……小池、です」

ぽつぽつと、まるで尋問のようなやりとりだ。俺が聞いて、相手が答える。それだけ。

「職業は?」

「貴方は仕事で人間を量るのですか」

…意外な答えだった。俺の世界では、職業や肩書きは一種のバロメータになる。それを言い渋る人間は大抵、現在の自分の立場に不満を抱いているのに、正そうとする努力をしていない人間だ。しかし、こいつにはその雰囲気は無い。ただ、すらっと言える職業では無いようだ。

「……何歳だ」

「35です」

もう少し若く見えたが…この落ち着きようを考えると、このくらいの年齢の方が、納得がいく。

「誕生日は?」

「……あの…」

自分でも、プライベートに踏み込みすぎているのは分かっているが、それでもこの不思議な男のことをもっと知りたいという素直な欲求が勝った。言葉を誤魔化すようにして、困った顔をしている。……仕方がない、か。聞き過ぎているのは分かっているんだ。いつの間にか僅かに興奮していた気持ちを、ゆっくりと深呼吸して整える。

聞きたいことよりも、言うべきことがあるのを思い出した。

「悪い。ちょっと…気になったんだ。それより、ありがとう」

「え?」

吃驚した…というには間抜けな顔をしているのが可笑しいが、ポーカーフェイスは慣れているので笑いを我慢することは容易い。しかし…分かってないのか、この男。……それとも、やはり馬鹿なのか?

まぁもっとも、そういう点が少しくらいないと、粗探しのしがいがないだろう。にやりと意地の悪い表情が俺を支配するのが分かる。久しぶりに面白い相手にあったという喜びもあるかもしれない。

「かばっただろ、俺のこと。しかも、とっさにワイングラスを誰も居ない方向へ倒そうとした。床の衝撃が少なかったのも、あんた…あぁ、ヒサシだったっけ……の仕業だろ?」

無意識の行動だとしたなら、すごい。よっぽどそういう訓練でもしたのだろうか。あんまり戦闘向きの性質には思えないのだが。

「……慧眼、敬服いたします」

まいった、というように男…ヒサシが笑う。小さな笑い声が耳に届いた。

「……!」

一瞬、目を見張る…それを隠すように顔を伏せ、すぐに顔を引き締めるといつものポーカーフェイスを保つ。……吃驚した。鮮やかな笑み…特に顔立ちが綺麗なわけでもないのに、まさに「とろけるような笑顔」というものだった。先ほどまでの微笑みが全て嘘なのではないかと思ってしまうような……ふわっと甘さが浮かんで、舌の上で一瞬にしてとけてしまうような綿菓子、それを連想した。

「俺は、貴志という」

こわばってしまう声でそれだけ言うのが、精一杯だった。ファーストネームを名乗ったのは、仕事を抜きにして付き合いたいと思ったからだったか…無意識のうちだった。言ってしまってから内心、自分の言葉が信じられなくなったが、言ってしまったものは仕方がない。

「貴志さま、ですね。…それでは貴志さま、ひとつ提案なのですが…服を脱ぎませんか? 濡れたままでは気持ち悪いですから」

それもそうだ。べとべとと張り付いて、気分が良くない…。しかし、初対面の相手を普通、さま付けで呼ぶか?

「…そうだな」

俺はスーツとシャツを脱ぎ捨てた。……が、祖父から貰ったものを、本当に捨ててしまうことなどは出来ないので、被害の大きいシャツは丸めて鞄に入れて持ち帰るしか無いか…クリーニングにでも出そう。

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