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ポリフォニー番外…美術館…
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駄目になって分からなくなって嫌になって…このままじゃイケナイという危機感だけが、膨らんで強くなって進んでいく。なのに、まだ自分はしがみついている。この、安寧とした自滅の世界に。このままここで自分を殺しながら、一生を送ることも出来るのだと……。そのほうが楽なのだと…。

何が足りないのか分からないまま、何が欲しいのか分からないまま、何が自分を構成しているのか…分からないまま。ゆっくりと、ひたすらゆっくりと時間が過ぎていく。

足を一歩踏み出したとき振り返ってみれば、振り返った場所で手に入れることが出来たのは、曖昧な笑いを顔に貼り付ける術だけだった。どうして、身体を動かすことが出来たのか…どうして、足が前へと出せたのか…目の前で、手を引いてくれる人が居た。

一歩出てしまえばもう大丈夫…もう片方の足は、きっと自力で引き抜ける。後は、足についた泥を自分で洗い落とせばいい。全てを失う覚悟だったはずなのに、多くのものを得た。自由な時間、自分の考え、広々とした空間。

改めて、今まで居たところを見てみたら、悪くは無い場所だった。けれど、その外とは比べようが無い。迷わずにその場から歩き出していた。ここはもう、自分がいるべき場所ではないと、分かっていたから。



給料は悪くない。福利厚生だって充実している方だ。社内の雰囲気は良くて、人間関係だって良好。仕事に波はあったが、やりがいのある仕事が多かったし、面白い仕事だと思う。良い職場に恵まれたと思う。

けれど、何かが違った。何かが、足りなかった。それが分からなくて、いつの間にか惰性で仕事をしている自分がいることに気づく。こんなに恵まれた環境で、何が不満なのだろうかと…どうしてそれに満足できないのだろうか、受け入れて、楽しめれば良いだけなのだ。

それが出来なくなっていることに気づいたのは、いつだっただろうか。

最初は、微かな違和感。無視して気のせいだと思ってしまえるくらいの。その次は、僅かなわだかまり。もやもやしていても、まぁいいかと流して仕舞っていた。今度は、無視できないほどの引っかかり。引っかかってもどうしようも出来ないくらいの。また次は、明らかな淀み。泥水に浸かって動けなくなるような。今は、徐々に感じる腐敗感。自分がまわりからじわじわと蝕まれていくのが分かる。

これでは駄目だと思うのに、どうして良いのか分からない。楽しめない仕事を抱えたまま、何故楽しめないのかと自分を責めて、それでも仕事をこなしていくことに精一杯になっていた。

こんなに満たされているのに、何故満足できないのだろうか。何故こんなにも自分は我が儘なのだろうか。何故、何故…。

「あれ、小池じゃん? うっわ、久しぶり〜」

そのころ、会社に行くたびに気分が重くなって体調にまで影響が表れ始め…金曜日までどうにか保たせているという生活をしていた。この日は金曜で、定時に会社を上がって重たい足を引きずって家に帰るところだった。乗り換えで使っている、何本も線が乗り込んでいる駅で、大学時代の旧友に会った。

相手の腕にぶら下がっているのは、おそらく彼女だろう…ずいぶんと美人を捕まえたものだ。もっとも、友人は女の子に好かれそうな顔立ちをしていて、大学時代から異性に人気があったから、吃驚する…というよりは、納得がいってしまうような相手だ。

「久しぶりです…今どうしてるんでしたっけ?」

「えー俺〜? 普通に会社行ってるけど」

「それで、今はデートなわけですね」

「そそ、そゆこと…つか、お前大丈夫? すげー元気なさそうなんだけど」

久しぶりに会った友人にまで指摘されてしまうなんて、そうとうキているのかもしれない…思わず自分の顔を押さえてしまった。微苦笑して誤魔化そうとするが、うまくいかなかったみたいだった。何しろ、

「無理に笑っちゃ駄目よ…どうしたの?」

相手が連れている彼女にまで、そう言われてしまった。長い黒髪を、すとんと背中へ落としている…そんなシックな髪型がよく似合っている女性だった。着ている物はおそらくブランドものなのだろう…そういう雰囲気の品質の服を身につけていた。これでは、さぞかし友人は金銭的に大変だろう…そう思って友人を見たのだが、気が付いたらじっと凝視されていた。

「……ホント、どーしたんだお前…らしくねーなあ」

自分らしくない…とは、どいう意味だろうか。……分からない。

「ちょっと…仕事が性に合ってないみたいで、情けない話ですがストレス溜まってるみたいなんです」

「だったら、さっさと転職しちまえよ。…あ、そういえば俺携帯変えたんだよ」

心配そうにしていた友人は、さらっと話題を変えた。先日変えたという携帯電話の番号とメールアドレスを押しつけられ、こちらも半年くらい前に変わって連絡していなかったものを、相手へ教えた。じゃあ、と夜の街へデートへくりだして行った二人の後ろ姿を見送りながら、自分の電話番号を確かめるために出した、携帯をポケットへ仕舞いながら、思った。

転職…。

けれど、何にどう転職して良いのかが、分からなかった。自分に何が欠けているのか…何が足りないのか。入りたいと思って入った業界だったのに、何故仕事が楽しめないのか…それが分かれば、自分の残りのパーツを見つけられる気がした。とにかく、転職してもまた性に合わない…という羽目には陥りたくなかったから。



その友人から突然連絡が入ったのは、次の週の日曜日だった。

『よっす、こないだはいきなりで吃驚だったな』

「こんばんは…会えて嬉しかったですよ」

『そうそう、ところでさ…ホントに転職する気、ない?』

ずいぶんと突然な話しの運びだったが、電話の向こうの相手は幾分か興奮していて、勢い込んで連絡してきてくれたのが分かる。何か事情があるのか…もしくは、心配されているからかもしれない。

「自分に合う仕事が見つかれば…そうしたいのですけれどもね。なかなか見つからなくて…」

『そうか〜…お前にぴったりそうな仕事なんだけどな。こないだの彼女居ただろ。彼女の親戚が店をやっててさ。そこで働く人を探してるんだって。彼女は、その話しを最初に俺んとこ持ってきてくれたんだけど…話し聞いてみたら、お前のが合うんじゃねーかと思って」

人生、どこでどういうつながりが出来るか、分からないものだ…。熱心に話してくる友人の声を聞きながら、ぼんやりとそう思う。友人が合うのではないかと言ってくれた仕事…何もしないより、その仕事がどんなものか、見てみるのも悪くないのかも知れない…。

「どんな仕事なんですか?」

『接客? っつーの? 詳しく知りたいなら、掛け合って置くぜ……実は、先週からずっと心配でさ。もし合わない仕事ても、気晴らしになるかもしれないじゃん?」

……やはり、心配されていたらしい。努めて明るく言ってくれる相手の言葉が嬉しい。話しをつけてくれる旨を頼み、電話は終わった。明日から仕事だと重うと、気が重い。

平日の時間が過ぎるのが、とても遅い。仕事自体は暇なわけではないのに、日々の時間は遅々として進まないのだ。そして、土日は力を抜いているうちに、あっという間に過ぎていってしまう。……嫌になる。今の仕事に専念出来ない自分も…それに対して、友人に言ってもらえるまでは、自分から何も出来ない自分も。

次の日早速、友人からメールがあり…やりとりの結果、急に次の日曜日にその店のオーナーと会うことになった。席を設けてくれた友人に感謝し、日曜日なのにもかかわらずスーツを着ると指定された場所へと向かった。最寄り駅で友人とその彼女と待ち合わせ、オーナーが待っているという店へ向かう。

「…あ〜…その…向こうついても、驚くなよ?」

友人が歯切れ悪く最初にそう言ったが、あまり気にしていなかった。……だが、その場所に着いてみれば、驚かざるを得なかった。何だ、ここは…。。。裏口らしいところから入ったのだが、彼女が持っていたメンバーズカードのようなもので、鍵のロックを開け…たと思ったら違った。更に設置されている数字板でパスワードらしきものを打ち込み…中に待機しているらしいオペレータに繋がると、カメラで確認されているらしく…ようやく扉は開いた。厳重だ。

バックルームらしき場所を通って、お客さんを通すであろう店の方へと出る。そこで更に驚いた。良くは知らないが、所謂セレブっぽい雰囲気というか…見慣れない高級感溢れるものばかりで構成された店だった。というか…ここはいったい何の店なんだろうか? しかし、今更友人か彼女に聞こうにも、もう目の前に店のオーナーだという人が居るのに、そんなわけにもいかない。

「こんにちは、お待ちしていました」

相手が迎え入れてくれるのに合わせて、こちらもお辞儀を返す。

「こちらこそ、お忙しい中お時間を作ってくださり、ありがとう御座います」

「ところで…驚かれているようですが…説明を聞いていなかったんですね」

「あら、最初から言ってしまったら来てくれなかったかもしれないでしょ。それに、おじさまが説明して下さるんじゃないのかしら?」

友人の彼女が、涼しい顔であっさりと重要な情報を意図的に黙っていたことを白状した。どうやら、二人に半ば騙された感があるような…。とりあえず、4人でソファへ座った。スタッフの一人なのだろう…見栄えのする顔立ちをしている青年が、珈琲を出してくれた。

「さて、まず大切なことを言わなきゃいけないのですが…」

そう言い置いて、オーナーはこの店がホストクラブであることを教えてくれた。予想を違わず、かなり高級な部類に入る店のようだ。

「ここは、セレブリティな方々を対象にしていて、主に女性をもてなしますが…少ないけれど、男性のお客さまも居ます。つまり、所定のお金さえ払って頂ければ、どんなお客さまでも受け入れている、ということですね。企業の重役クラスの方や、政治家、閨閥関係者、芸能人、芸術家…所謂有名人と呼ばれる方も多く来られます。……通ってこられたから分かると思いますが、それゆえにセキュリティはかなり厳重になっています。仕事は、そんなお客さまひとりひとりに合わせた接客…おもてなしです。この店で…いかに楽しんでくつろいで頂くか…そういうサービスを行っているのです」

「つまり…仕事はホスト…もしくは先ほどの方のようなスタッフ…でしょぅか? 接客とは伺っていましたがまさか…」

こんな仕事だとは……。友人をちらりと盗み見たら、片手を顔の前へ持ってきて、謝罪のポーズを作っていた。にしても、こんな仕事は全く視野に入れてなかったからな…やりたいやりたくない以前に、想定外で頭が着いていかない…。

「ボーイは今のところ募集していませんね…貴方はホスト向きの方だと聞いていて、是非お会いしたいと思ったんです」

……ホスト向き???

思わず、友人の方へくるりと顔を向けた。

「え〜…お前気づいて無かったのかよ?…女の子口説かせたら大学一だって言われてたの、知らねえ?」

……知らなかった。

「それに、かなりのフェミニストじゃん、小池って。そもそも、相手本意というかサービス精神旺盛すぎというか…。あ、あと、何回かお前がバイトしてるレストラン行ったことあったけど…接客上手だったし、こういう仕事は好きだって言ってただろ?」

フェミニストなのは認めるし、つい周りの人を優先しがちなのも認める…接客が好きだと言ったこともあるような気がする。だが、それにしても…この友人にそこまで理解されていたのは、かなり意外だった。それに、女の子を口説かせたら大学一などという、名誉とも思えない噂をされていたとは…口説いた覚えはあんまり無いのだけれども。

「接客は嫌いではありませんが、実はこういう仕事について全く考えてこなかったのです」

「もちろん、嫌ならば無理に頼むことはしません。少々残念ですが…」

「いえ、嫌というわけではなくて…もっとどんな仕事なのか、具体的に教えて頂けませんか? 知りもせずに判断を下してしまいたくないのです。出来れば、この仕事の良い面だけではなく、辛い部分なども教えて頂ければ嬉しいです」

もしかしたら、細部に渡った話しは仕事の関係上教えてもらえないのではないか…と思っていた。実際、オーナーは少し驚いた顔をしていた。だが結局、

「そうですね…少々長くなりますけれど…」

そう前置きして、話しをしてくれた。友人と彼女は長くなるからと先に席を立ち、オーナーと向かい合って話しを聞いた。途中、珈琲が出し直され、ホストの一日の仕事の流れを追いながら、詳細に渡って仕事を聞くことが出来た。その話しの後、事務的な話しに入る。

「こちらで最低保証する給料は、出勤一日に対して1万です」

給料は、華やかな世界を裏切るように、厳しい物だった。

「ただし、お客さまから指名が入ったり、予約、同伴などがあった場合は手当が付きます。その他、その日に付いたお客さまが頼んだ飲み物など、それに見合った額の手当が付きます。その辺はボーイがきちんと管理していますし、私も不正がないかチェックを入れます。主なホストとしてお客さまに付いた場合と、ヘルプとして付いた場合…など、詳細に渡って計算されています。……これが、給料計算に用いられる表です」

見せてもらった表は、ホストによってかなりの差が付くことを示していた。何しろ、売り上げTOPのホストには、300万のボーナスが付く。……。…300??? かなりの額だ…。2位には200万、3位には100万。これはそうとうホスト同士の競争が激しそうだ。しかし、1回指名を貰うだけで10万の手当がでるというのは…いったいお客さんが払う指名料っていうのはどのくらいなのだろうか…恐ろしい。

「最初の一ヶ月は、研修扱いで指名や同伴手当などは受けられません。その変わり、出勤手当を基本1万の1.5倍支給します。その後5ヶ月…つまり、入ってから半年までは、一月ごとに特定のホストに付いて、勉強して頂きます。その間に、お客さまを紹介して頂いたり、新しいお客さまに会ったり、付いたホストの仕事ぶりをみて勉強することになります。付くホストは、前月の売り上げ5位以内のホストとなっています」

細かい仕事の話しを聞きながら、とったメモは、10ページ以上になった。最後の方は、もう働いて貰うことを前提としているような内容で…ふとここまで話して貰って良いものなのかと疑問に思ってしまった。

「…申し訳有りません。途中に口を挟んでしまってすみませんが…こんなお話まで伺ってしまって良いのですか?」

「……きっと、仕事をして頂けるのではないか…これは、私の予想というよりは勘ですが、そう思っていますので」

確かに、話しを聞いていくうちに非常に魅力的でやりがいのある仕事だとは思っていた。…まさか、見抜かれたのだろうか。

「それに、私は貴方が…小池さんが気に入りましたので、働いて貰いたいと思っているんです」

「ふふ…ずいぶんと買いかぶって頂いているようですが、友人が言うほど私はホストに向いていないかも知れませんよ」

「店では約40人のホストと10人のボーイと5人のボディガードが働いています。けれど、貴方のようなタイプは、居るようでいて居ません。優しい…というよりは、穏やかな雰囲気。けれど女々しくはなく頼りがいもある…きっと女性に好かれるだろう、という考えもあります」

「…ありがとう御座います。私自身はそうは思えませんが、褒めて頂けたのだと思っておきますね」

「ほら…の笑い方です」

「………はい?」

「気づいてないのですか、小池さんは顔立ちは整っているのに、あまりパッとした印象がない…なのに、さきほどのような笑顔を浮かべると、とても魅力的に見えるんです。分からないのならば、今度鏡の前で笑ってみると良いですよ」

このオーナー…侮れないような気がする。今日だけで、そこまで観察されていたとは。そうですか、と答えながら自分の顔を押さえてしまった。

結局、かなり長い間話し込んで…前向きに考えてみます、という働くことを半ば了承したような言葉を残し、待っています、というオーナーの言葉を貰って、帰えることになった。



結局、その後1ヶ月の間に友人とその彼女に何回か会って…オーナーともう一度話しをし…転職を決めた。実を言うと、ホストなんていう堅気ではないではない仕事につくのは、かなり不安がある。ホストを止めた後、普通の会社へ復帰するのも難しそうだ。今の、社会的な地位(といっても、普通の会社の会社員だというものだが)まで失いそうな気がする。

水商売をよしとしない人たちからも嫌われるだろう。家族からもあまり良くは思われないに違いない。全く売り上げが伸びずに、そのうち路頭へ迷う可能性だってある。そういう可能性を考えながらも、何故転職を決めたのかというと、ホストという仕事に興味があったからだ。もちろん、甘い仕事じゃなくて、かなり辛い面があるということを具体的に聞いていたが、それでもやってみたい…と思ってしまったのだ。

それに…このまま今の会社で、半分死んだような状態で仕事を続けることに、意味を感じなかった。自分が分からなくなりながら生きるよりも…それ以外の道を取りたかったのだ。

「ありがとう…やはり、私の勘はあたりましたね」

オーナーが笑っている。差し出された手を取って、握り返し…正式に働くことを承諾した。いくつかの書類を書き、手続きも行う。場所は開店前の店で、友人とその彼女が立ち会ってくれた。

「そういえば、源氏名はどうするのかしら?」

書き終わった書類をオーナーに手渡したところで、友人の彼女がふと言い出した。……源氏名? とは何だろうか。

「あ〜働くときのホストとしての名前ってことだよ」

友人が横から助けを入れてくれる。ホストとしての名前なんていうものが必要なのか。知らなかった。本名で働いてはいけない、などという決まりがあるのだろうか? そうは思えないのだが…。

「今の名前では駄目なんですか?」

オーナーに確認しようとしたのと一緒に、オーナーの声が重なった。

「実はもう考えてあるんです」

……という声が。

「あら、どんな名前? おじさまが源氏名をつけるなんて珍しいわね」

「瑞夢、というのはどうだろう」

「ずいむ?…どんな意味なの?」

「吉兆の夢…瑞兆の夢…簡単に言えば縁起のいい夢っていうことだ」

「あら、素敵じゃない」

勝手に話しが進んでいく…が、そんな恥ずかしくて訳の分からない名前で働きたくない。別に名前のヒサシ、で良いきがするのだが…駄目なのか? 慌てて自分の意見を述べようと身体を乗り出す。…だが。

「ちょっとそれは恥ずかしいので遠慮したいのですが…」

「恥ずかしいなんて言っていては仕事は出来ませんよ。もっとそれっぽい源氏名のホストも沢山居ます」

「けれど、別に本名をそのままでも問題が無いような…」

「それは駄目よ。ホストっていうのは夢を売るお仕事よ。そんな名前じゃ夢が覚めちゃうじゃない」

抵抗はことごとく破れてしまった。しかも、間髪入れずにすぱっと切り捨てられてしまった。オーナーと友人の彼女の間では、すっかりともうその名前でいくことが決定しているようだった。オーナーを見ていると、嫌がっても喜ばれても、その名前にするつもりが満々だったように見える。果てには友人までが、お前にお似合いじゃん、と言い出す始末…。これはもう、受け入れざるを得ないのだろうか? 嫌だ…。

嫌だ…が、その名前で働かざるを得ないことになってしまった。何しろ、オーナーが名刺と研修時につける名札をそれで用意してしまったので。……。

そんな経緯を経ながらも、転職を決めた一ヶ月後に退社した。半月ほど休んでゆっくりし、その間に準備もする。夜からの出勤というのが、すぐにはしっくりこなさそうだが、そのうち慣れるだろう。友人の彼女から、転職祝いにと貰った、質の良さそうなスーツ…初めての時はこれくらいがいいと思うわ、と気遣って貰ったらしい。友人からは、ネクタイとネクタイピン。それぞれ合わせて選んでくれたようだった。…ありがたい。

あの厳重なセキュリティも、自分で抜けていく。…そして、オーナーに改めて迎え入れられた。

「よく、来てくれたね」



後日、仕事が落ち着いたくらいに、友人とその彼女にまた会った。

「仕事はどうだよ?」

「大変ですよ…ようやく慣れてきましたが、まだまだこれから、という感じです」

「早く慣れるといいわね」

「あの名前だけは、当分慣れるのが難しそうですけれどもね…自己紹介の時、ようやく突っかからなくなりました」

そう…どうも、瑞夢とかいう仰々しいような名前は、しっくりいかずに困っていた。笑いながら冗談交じりに話すと、しっかりしろよと友人に肩を叩かれた。どうせだから名刺が欲しいという二人に、転職したときに新しく貰った名刺を、一枚ずつ差し出す。

「良い名前だと思うけどな〜」

「そうは言いますけど…いったい何でこんな名前にしたんでしょぅか…オーナーは」

「あら、知らなかったの?」

友人の彼女が吃驚したようにこちらを見てくる。理由が何かあったのだろうか…単に、おめでたい名前だからなのかと思っていたのだが、違うのだろうか…。

「……理由をご存じなんですか?」

「ええ。おじさまは、日本画がお好きなのよ。貴方が仕事を決める少し前、気に入った日本画を見つけた、と言ってたわ。その題名が、瑞夢だった、って」

日本画とは…また意外なものが出てきた。美術展関係は比較的良く行く方だが、瑞夢などという名前の日本画は見たことがない(覚えていないだけの可能性もある)。どんな日本画なのだろうか…。

教えて貰ったのは、東京の真ん中にある、とある美術館だった。九段下から歩いて、10分以上はかかる場所にある。こんな不便な場所にある美術館に、人が居るのだろうか…と思ったが、けっこう居た。そして、目的の絵を探す。…あった…一幅の日本画。

富士と鷹と茄子が描いてある…つまりは結局、おめでたい絵というわけだ。だが…この絵を見て…何故だか、貰った名前がそんなに嫌では無くなった。柔らかい日本画の色彩…柔らかな筆使い。ぼんやりと背後に浮かぶ富士山を渡るように、ゆったりと鷹が舞っている。手前には、豊かな茄子の枝。「おめでたい絵」という言葉から連想していた、ハデなイメージは全く無い。落ち着いて、穏やかで…存在感が無いようでいて、酷く離れがたい。

この絵が元ならば…悪くないかもしれない、と思った。気に入った日本画の名前を、もらった…というのも、嬉しい。名前に込められた想いを、ようやく今受け取った、という気がした。嫌がっていた気持ちが、ゆっくりとじんわりと溶けて…別の暖かい気持ちになってしみこんで無くなっていく。

…この絵に恥じない仕事を、しなくては。

たっぷりとその絵ばかりを眺めてから…美術館を後にした。また来よう、と思いながら。

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後書きもどき。

話の中に出てくる日本画は、実在します。山種美術館が所蔵している、田崎草雲の「瑞夢(富士・鷹・茄子)」です。山種はちょっと遠いのが難点なんですよね…結構小さめの美術館です。ちなみに、そもそもオイラが「瑞夢」という言葉と会って、この言葉が好きになったのは、全然違うきっかけからです。普通に辞書引いてたら見つけた、とかいう夢の欠片も無い話しなのですが。


★注意★
この話しのモデルになっている山種美術館ですが、実際は常設展がありません(この話しの中では、何時でもやっているような風に書かれていますが)。所蔵されている作品…「瑞夢」が日の目を見るのは、1〜3年に1回のようです。もし、瑞夢という絵が見たいという方は、事前に問い合わせた方がいいと思います。HPに写真が載ってるので、それで充分だと思いますけれどもね(オイラも実際に見たのは3、4年くらい前に一回だけ)。

そして、この田崎草雲という人は、南画というものを描いている人だそうで、本当は日本画じゃないのかもしれません(汗)。けれど、山種美術館が日本画専門の美術館なので、今回の話しでは分かりやすく日本画として扱っています。……だって、南画なんてポピュラーじゃないじゃないですか。。。(というか、南画って何?/汗)


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